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Wineを使ってLinux上でWindowsソフトウェアを動かすこと自体が、とても奇妙なことだ

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カテゴリー Linuxシステム FOSSをめぐる問題
タグ Wine
目次

自由なプラットフォームでプロプライエタリソフトウェアを使うこと自体が奇妙なことだ。

Linuxを試してみたい人はいる。しかし彼らはソフトウェア移行の痛みを経験する。ゲームは大きな要因であり、さらに多いのは、以前の常用ソフトウェアにLinux版がない、またはLinuxの同類製品に慣れていないことだ。そこで彼らはWineをインストールし、変換の方式でWindowsのソフトウェアを動かす。OSを切り替えたのに、エコシステムに慣れず、逆にWineを使いたがる?

まず強調しておくが、Wine開発チームの努力を貶めるつもりはない。彼らの行動はFSFが言う「プロプライエタリソフトウェアを研究し、それを使って自由ソフトウェアを開発する」という呼びかけに合致している。しかし、ユーザーがLinuxプラットフォームで同類ソフトウェアを探さず/学ばず、ただあらゆる手を尽くしてWineでWindowsソフトウェアを動かし、重要な事務を処理しようとするなら、それこそ理解しがたい点である。

Wine自体はオープンソースであっても、実行するソフトウェアは依然としてクローズドソースである。だから非自由ソフトウェアを実行することは奇妙なだけでなく、不道徳でもある。

1. ワークフローに適応し直す必要があるため、Wineを使う
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Linuxには多くのプロプライエタリソフトウェアの同類ソフトウェアがある。注意して強調したいのは、同類製品であって代替品ではないということだ。LibreOfficeはMicrosoft Officeの同類製品であり、代替品ではないと言うべきだ。代替品という言葉には、負、劣るという意味が含まれるが、LibreOfficeの機能はMicrosoft Officeに劣らない。

また画像編集と言えばPhotoshopを思い浮かべるが、機能面で言えばGIMP、Kritaも劣っていない。ただソフトウェアの使い方とワークフローに適応し直す必要があるだけだ。だから彼らがWineで慣れ親しんだPhotoshopを動かすことを選び、GIMPを学ぼうとしないなら、それは習慣と過去の経験による可能性がある。したがって問題はソフトウェアの範疇を超え、エコシステムに適応し直す問題になる。

しかしそれの何が悪いのか?もともとの先入観を捨て、自分が一つのものに慣れているという現実を受け入れ、新しい観念を学び直すほうがよいのではないか?

自由なプラットフォーム上では、本来自由なソフトウェアを使うべきだ。プロプライエタリソフトウェアと自由ソフトウェアが水と油の存在ではないとしても、なぜ自由は能動的防御の概念であるべきなのかを以下で説明する。

2. 理念の問題
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さらに深い理由は、ソフトウェアは自由でなければならないという本質を意識していない人がおり、なおソフトウェアを目的達成のための道具に過ぎないと見なしていることだ。

この情景を別の言い方にしてみよう。よい音楽を作ることと、その背後で使っている編集ソフトウェアが自由であることには関係があるのか?論理上、直接の関係はない。ここから分かるように、ここで強調しているのは一種のイデオロギー、一種の理念の問題だ。自由ソフトウェアを使っても問題解決の目的を達成できる保証はない。しかし理念をすべてに先立つ本質と見なすからこそ、ソフトウェアが自由かどうかを最優先の考慮とし、その次に問題を解決できるかどうかを考えるのである。

理念が問題解決に先立つという前提が出てくるのは、Linux自体が自由であることに帰属すべきだ。GPLの自由は、この理念を能動的に守り、堅持するためのものであり、BSDのように人に好き放題奪わせる類のものではない。ここに至って理念は道徳のレベルの問題へ上昇する。私たちには確かに、他人がどのソフトウェアを使うかを強制的に管理する自由はない。しかしこれは常に呼びかけなければならないことでもある。そうしなければ、それは黙認された現実となり、この行為が奇怪と見なされるまで進む。

ひとたびプロプライエタリソフトウェアだけを使えば、自由ソフトウェアに触れる機会が減る。さらにWineのような一時しのぎを利用すると、人は安逸に慣れやすく、プロプライエタリソフトウェア部分に寛容な心態へ落ちていく。私たちはすでにLinuxカーネルの中へ、あまりに多くのプロプライエタリファームウェアを入れてしまった。利己的なメーカーのハードウェア装置を駆動するためだけに。だから少なくとも一般ユーザーが触れられるデスクトップアプリケーションでは、これ以上このような情景を拡散させてはならない。自由を能動的に守らなければ、理念を堅持することも自分に対してしか有効ではない。

したがってLinux上では、必然的に自由ソフトウェアのエコシステムを学んで使い、Wineを使う機会を減らす必要がある。特に主力の生産に使うアプリケーションでは、なおさら自由ソフトウェアを使って操作すべきだ。ゲームに関しては関わる層が広すぎ、性質としては芸術とソフトウェアの混合だと考える人もいる。ひとたびゲームも自由でオープンソースでなければならないと堅持すれば、人生の楽しみを大いに破壊することになる。だからゲームは唯一見逃してよいソフトウェア類別だ。ただし自由なゲームフレームワークプラットフォームがあるなら、当然それも大いに支持すべきである。

3. 解決方法
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かつてUbuntuを使い始めたばかりの頃、私もWineを愛用していた。しかし今では、簡単な小プログラムでない限りWineは使わない。そうでなければ仮想マシンを開けば、奇妙な環境問題に悩まなくて済む。Linuxの常用ソフトウェアについてはFlathubで検索できる。これらのソフトウェアの多くには詳細な操作マニュアルもあり、しょっちゅう金を払って学ぶ必要はない。あなたは少し頭を使う気さえあればよい。

WineでWindowsソフトウェアを動かすことは、一時的な応急策だ。私はMarkus Alexej Perssonの言葉を借りてこう言いたい:「一時的にプロプライエタリソフトウェアを使うのは構わないが、羞恥心を抱いてそれを使うべきだ。」

最終的にはやはり自由でオープンソースの同類ソフトウェアの使い方を学ぶべきだ。そうでなければいっそWindowsへ戻ればいい。手間も省けるし、後ろめたさもない。

自分にとって、最低ラインは堅持しなければならない。堅持できず負けを認めても構わない。いつか必ずよりよいものが現れるからだ。RMSは、自由ソフトウェアがある機能を欠くことは欠点であって、抑圧ではないと言っている。

一方で、私たちはプロプライエタリOS、プロプライエタリソフトウェアを使う人にあまり敵意を抱くべきでもない。前向きかつ合理的に他人を励まし、どうしても頑迷な者については、私たちはただ随順するしかない-他人の意に従い逆らわないことを言う—そして相手のために祈る。

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